先日、起きてボーっとテレビを付けると、CSでエヴリン・グレーニーのドキュメント映画「Touch The Sound 」をやっていたので、観ました。
フレッドフリスがギターで出演していた。
トテモ恥ずかしい話ですが私は25年くらい前、彼の前でギターを弾く機会がありました。
恥ずかし気もなく若気の至りで、クソみたいなノイズギターを弾いたのです。穴があったら入りたい。
この際だから白状しますと、そういう恥ずかしいエピソードはまだまだあります。18くらいの頃です。
イラン人のフリージャズバンド「SADATO」のライブに、ギター1本担いで、いきなり楽屋へ行って「おらも弾かてくれろ」などと言っていました。
今考えると顔を洗って出直して来いというような、ムカツク田舎っぺ丸出しの餓鬼です。
SADATOは面白がって次の日のライブの2ステージ目に私を舞台へ招き入れてくれましたが、あの頃私は即興とかそういう哲学的なレベルの話以前の18才だったので、散々たる無惨さで敗北をしまくっていました。あたり前です。
終わった後でSADATOに「オマエハ、ジミヘンドリックスニナリタイノカ?」と聞かれ、「アー、イエ、ソウデモナイデス....」と答えました。
ギタリストの人には「君ノギターノエフェクタースゴイネ、コレナンテイウモデル?」と聞かれました。ギターオタクなのですね、その人。「オモシロカッタネー、マタヤロウヨ」と言われましたが、確実にそれはどうせ”挨拶”です。彼は終わった後で、奇麗にギターを磨いて手入れしていた姿をはっきり覚えています。へー、プロってのはそういうもんなのかと思いました。
今はもう私はギターを弾いていません。持ち方すらきれいに忘れました。
.....話がずれましたが、それはともかく、
映画の中でエヴリンの言う「日常の全てにリズムがある〜云々」という言葉が妙に心に残っています。
「朝っぱらから深〜いものを見てしまったな〜」と、食パンを齧りケツをボリボリかいて屁をこきながら観ている自分が恥ずかしくなりました。
彼女は難聴のパーカッショニスト。寺の枯山水の砂紋を精美する坊さんの前で、ずっと佇んでいる姿を見た時に、久し振りに心が打たれました。
彼女が身体で感じる音の世界。
踊り手が肉体の中に流れる水の音に耳をすます行為や、血流の音やその流れに身をまかせる行為もまた同様に、”静寂の中の音”ありきです。
というか彼女の言う通り、日常の全てに音があり、”静寂”なんてものはそもそも何処にもないのでしょう。
個人的な話ですが、何だか最近は、踊りとか表現とかアートとか作品とか、そういうものから自分の意識が乖離してきています。
自分は自分でしかなく、表現者でもアーティストでもダンサーでもないと。......極端に言ってしまえばそんな感じですか。
もちろん踊りや公演も続けますが、そんな中でも自分自身の意識のベクトルはそういう方向へ向いて来ています。
ダンサーというものは、音に踊らされてはいけないのか?とある時期、必死で抵抗するものですが、べつに踊らされる時は踊らされてもいいのです。
踊らない時は必然的に踊らないようになっていますから。もっとワガママでもいいのです。
しかし、黙って突っ立っていても決して不動ではないのです。
そんな事より”ただ在る”という事実と向き合い(触れあい)、同時に”ここには無い”という確信に触れあうだけでいいと思ったりします。
中々そういう事は出来ませんけれど。
ここにはある、でもここにはない。あの世にもこの世にもどんな次元にも自分が存在している、と言いますか....。
なんかめんどくさい話ですね。すいません。
そんなメンドクセー事をつらつら考えながら、映画を観終わってまた一発放屁。
それでいいのです。
下手の横好きで写真が趣味です。
http://www.flickr.com/photos/46542977@N04/
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